自分を知るための

わたしは、わたしのままで生きたい

自分にできる量について

他人の目を気にして、嫌われないためにずっと生き続けて、そろそろ限界、疲れてしまっているのに、生まれてから25年間、そんな自分に慣れきって、臆病になりすぎたせいで、開き直りきれなくて、そんな自分を好きになれたり嫌いになったり、ゆらゆらしていて、だから、なにか、ブログを書くことで、ヒントを得たいなと思った。わたしは、わたしの、そのままで、生きたい。

 

 

日々、感じたこと、思ったこと、素直に、感じたまま、書いていく。

 

 

 

今日は、仕事が休みだったので一日中家にいた。普段だと、土曜は仕事だし、貴重な休みなので、有意義に過ごしたいという気持ちばかりが焦った日だった。

今日やりたかったことといえば、

1・通販で買ったサイズの合わない靴の返品

2・冷蔵庫に買い込んだ食材を一気に調理

3・洗濯物が溜まっていたので洗濯

4・部屋が散らかっていたので片付け

5・クロッキー

6・ギターの練習

7・自分について考える

8・お金について考える

 

 

 

最初に取り掛かったのはクロッキーだったけれど、まずそもそも、取り掛かるまでに半日以上かかった。やりたいことが多すぎて、何から取り掛かっても別の何かが頭を過るんではないかという、謎の恐怖心から、午後2時ころまで動けずにいた。

この恐怖心で動けなくなることは、私は本当に多い。たいていそんなときはスマホを触っている。ネットサーフィンばっかりしている。変な好奇心から、いやーな過去の犯罪の記事を読んだりして、無駄に恐怖感と不安が募って、いいことなんてありゃしないのに(本当に、いいことがあった試しがない)、性懲りもせず、ゴロゴロと携帯ばかりいじる。携帯がめちゃくちゃ楽しいのではないし、私も、好きでやっているのではない。本当なら今すぐにでも動き出したい。でも、動けずにいる。

なんだか、漠然とした恐怖があるようなかんじ。何かから逃げているんだと思う。何から逃げているのか、はっきりとしたことは、わからないのだけれど、ひとつ、わかるのは、本日やりたいこととしてあげていた者たちが、今朝の時点では、箇条書きにできるほど私の頭の中で整理されていなかったものだから、なんだか、漠然とした「やらなきゃいけないことの大きな塊」として、わたしを責め立てていたんじゃないかと思う。

 

 

 

やらなきゃいけないこととして、先程の8つが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え、、、。「あ、これ今日やんなきゃ」「ありゃ、そういえばこれもあった」「待って、これもせんといかんくない?」「なんか今日たくさんない?」「今日、なんかいっぱいある!」「わーどうしよどうしよ!そんなたくさんなら時間めっちゃかかるじゃん」「それなのに私はまだ布団の中にいて」「ケータイいじってて」「でもあともうちょっと。」

って頭の中はめちゃめちゃいろいろ考えてたような気がする。考えすぎて混乱してて、わけわからんから、とりあえず怖くなってしまって。

動けんくなって考えすぎてる間も、刻一刻と時間は過ぎていて、その延長上に、携帯を触り続ける私は存在しているのかもしれない。

 

 

 

携帯を触り続けている自分に気がついたら、そこには、恐怖が、潜んでいる前提で、落ち着いてみていくといいのかもしれない。一つ一つ紐解いたら、なんてことないものばかりのような気がする。一旦、画面から顔を上げて、深呼吸する勇気が必要なのかもしれない。深呼吸する勇気だなんて、変な勇気(笑)

でも、臆病は、こういうところにも出るのだなあ。

 

 

 

 

今日、結局クリアできたのは1〜3と若干5(クロッキーやったけれど、少ない上に雑だった。他のことが頭をよぎって、必要ないのに焦って書いたりしたからというのも、あると思うけれど)。

これが、わたしのできる量なのかもしれない。午前の時間を使えばもっとできたはずなのに、、、!と、以前の私なら思っていたはずだし、今もそう思いそうになるけれど、

 

違うんだと思う。「午前中は完全に潰したうえでできるこの量」こそが、わたしにできる量、そのままなんだ。と、今書いていて、思った。

 

この量を恥じることは、ないんだと思う。それが、「自分のまま」で、生きることにつながると、いいな。

 

 

 

 

恥ずかしいことにも、挑戦していきたいので、クロッキーも貼り付けよう。

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おしまい